2016年12月29日木曜日

上海の歴史、南市(上海でも古地図、古道), パート2

(続きです。)

復興路を渡って光晵路を行きます。ここは南市の南北のメインストリートらしい。

でもこのレベル。。。

復興路から南側はまだ政府の手が入ってないみたい、、、って言うかこの時やってたようです。だからただでさえ汚いのに益々汚いですね。

因みに、前回記事の復興路より北の区域が漆喰塗り直されてきれいになってた件ですが、あれは政府が実施してます。費用も政府が出してます。その代わり、有無言わせないんですけどね。


これはどうでしょう。

恐らく民国の時代だと思います。

ところで、「民国の時代」って分かりますか?

日本で学校で教えないからな。中華民国のことです。辛亥革命から共産党に内戦で敗れるまでの時代。


これはもしかしたら木造で、だとすると清の時代かもしれません。


橋家路に着きました。ここは、商店街ですね。夕方だったので賑やかです。


ここは歴史遺産ですね。徐光啓が住んでた、と、いうことは明末の建物です。しかし、保護してる割には放置だから汚いな。なんか張り紙してあってもうすぐ壊されちゃうかな。


折り返しで兪家です。石庫門が残ってます。


良い感じの通りですね。よく見ると軒先で爺さんが椅子に座ってます。


折り返して又橋家路。石庫門が多く残ってます。



最後に梅家街。


どうでしたか?

上海のイメージとは程遠い、でもこれがReal上海です。ちょうど100年くらい時が止まっている感じです。

と、いうと、三丁目の夕日的な感じがするんですが、実際、復興路から北は漆喰が塗り直されてきれいになってましたから、そんな雰囲気にならないこともないんですが、現実としては、上海の他の区域と比べると、結果的にスラム街のような感じなんですよね。観光客も来ないから珍しいし、生活が軒先に溢れるので、言ってみれば他人の庭先に入るようなものですから、きれいな格好して一眼構えて、というのは、総合的には、あまりお勧めしないです、観光としては。書いときながら、ですが。

2016年12月28日水曜日

上海の歴史、南市(上海でも古地図、古道), パート1

上海県城古地図東半分、1841年頃

上海県城古地図西半分

この古地図は南市、つまり、上海県城内の1841年頃(アヘン戦争の真っ最中)の古地図で、二本実線は水路で、一本点線がfoot pathだ。

西半分は現代地図と見比べると何となくはっきりしないが、東半分は割とはっきり分かる道が残っていて、それが下の現代地図の赤線だ。


拡大しないと分からないので、拡大して確認していただければと思うが、四牌樓から東西姚家に行く道、東街なんかは明瞭だ。これが分かると位置的に学院路が分かってくる。古地図には通りの名は未記載だが。同様に、光晵路が分かり、兪家と梅家街は古地図に記載アリだから分かって、すると橋家が分かる。

と、いうことで、今回は、上海でも古地図、古道ということで進めたい。

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まずは方浜からの四牌樓入口。このような門が残ってます。


八百屋さん。地べたに野菜置いてますが、こんな感じです、どこも。


多分、個人的に、でも商売として洋服のお直しなんかをやってるんだと思う。

これは商売だけど、上海の人はこうして家の軒先に椅子持ってきて座るの好きみたいです。よく見る。

でも注目してもらいたいのはこのおばちゃんたちの左。パイプに豚バラ、腸詰め干してます。上海のこの季節の風物詩。


このおっさんは料理中。この南市の古い住宅は、共同住宅なんですが、風呂、トイレ、流しは共同で、外にあります。

このおっさんの場合は、軒先が好きというわけではなく、これしか方法が無いのです。


四牌樓路から西姚家、東姚家に入りましたが、マンションがあるだけでつまらない道だったのでスルー。東街に入りました。ここは嘗ての白物家電中古品屋さん通りだったんですが、全部無くなっちゃいました。汚い通りだったし、偽物も多く販売されていたので、政府に整理されたんでしょう。

で、残っていたチャリ屋のおっさん。軒先&椅子&昼寝、王道を行ってます。


で、このおっさんの家の隣の隣。地震が無いから大丈夫なんだろうけど。。。


学院路に入りました。学校は無いのに、何故、学院路なのか。恐らく、ここに嘗て文廟があったからだと思ってます。因みにこの通りには嘗て県治もあり、南市のメインストリートだったんだと思う。

四牌樓、姚家、東街と来ましたが、写真でも分かると思いますが、パッと見、きれいなんですよね。以前来たときはもう汚かったんですが、通りに面した側は漆喰を塗り直してきれいになってます。

学院路もそうだったんですが、ふと、上を見上げると・・・・・


そんな学院路には似つかわしくない車で最後締めます。

続きは次回


2016年12月26日月曜日

上海の歴史、外灘

広東路を抜けると一気に視界が開ける。

私はいつもここで左折する。

顔を左に向けるとそこには朝日を浴びた近代建築群。外灘だ。




週末の朝、この光景を見ると自分が上海半分、東京半分の生活をしていて、上海でも自分のリズムで生活できていることを実感し満足する。

さて、外灘は建築様式を見るとイギリスっぽさ満点だが、意外にも、日本と深い関わりのある建物も少なくない。

まずはこの広東路と中山東路の角にあるのは日清汽船。三菱の御大将、岩崎弥太郎が作った会社だ。


次は台湾銀行。その名の通り台湾の銀行だが、台湾が嘗て日本の統治下にあった頃の建物だ。写真では見えづらいがその奥には三井、三菱、住友の三大財閥銀行も並んでいる。


横浜正金銀行。横浜の神奈川県立歴史博物館は元横浜正金銀行。その上海支店だ。


横浜正金銀行の北隣、北京路と中山東路の角という当時の一丁目一番地に陣取るのは、嘗てのジャーデン·マセソン商会。この会社の長崎代理店がグラバー商会だ。ジャーデンが無かったら、維新は無かった。


さて、この辺りで顔を右に向けよう。黄浦江の対岸、浦東地区には打って変わって新しい高層建築が聳え立つ。栓抜きのような形をしているのは森ビルで、その右、建築中(この写真を撮った時は。今はすっかり完成している。)の世界一の高さを誇るビルのエレベータは日立だ。こちらにも日本の影が。


前に進もう。川風が気持ち良い。黄浦江の蘇州河との合流点の先は日本郵船。ここは嘗ての長崎⇔上海航路の発着場。芥川龍之介もここで上海に上陸した。


日本関係はひとまずこれでお終い。

左に目を転ずればGood View. ブロードウェイマンション、外白渡橋、英国領事館、上海郵政ビルだ。


私はいつもここで折り返す。体も温まってきた。汗が噴き出す。

南へ

共同租界とフランス租界の間には共同施設、気象台がある。


ここから南はフランス租界だ。入っていきなりこの建築。アールデコの極み。初めて見た時は、ごく最近の建築とばかり思っていた。しかし、旧イギリス租界(共同租界)との違いに驚く。正に、建築博覧会だ。


フランス租界の終わりは東門路。ここから先は華界。1200年頃から貿易港として栄えた中心はここ十六舗だったが、今は影も形も無い。


さて、広東路まで戻ってアパートに帰ろう。ちょうど一時間。これから帰って洗濯して買い物行って晩飯作りです。